法服・鈍色・素絹・直綴
現在、本願寺における一般の法衣は大別して色衣、黒衣、布袍の3種ですが、本願寺22代・信英院鏡如宗主による明治41年の服制改革の結果が現在に至っているもので、これ以前は、法服(袍裳)、鈍色、素絹(裳附)、直綴の4種がありました。
これらの衣は、8代・信証院蓮如宗主から12代・教興院良如宗主の頃にかけて次第に種類が増えていったもので、幕藩体制下でその制度の完成を見ました。
仏教における法衣とはもともと袈裟のみであり、北伝によりその土地の気候に合わせて袈裟の下に衣服を着用することが行われ、中国では国家仏教として政権に取り込まれたために官服を袈裟の下に着用することが行われました。
我が国においても同様で、上述の法衣のうち、法服、鈍色、素絹はいずれも官服である礼服(らいふく)、束帯の流れを汲む法衣です。
法服(ほうぶく)は、本願寺では七條袈裟を着用するときのみに用いられた法衣で、僧綱襟のついた上衣である袍と、巻きスカート型の下衣である裳のツーピースからなるため袍裳(ほうも)とも称し、有文の袷(裏地を付ける)仕立てであることを特徴とします。
我が国において天皇の即位式に用いられた礼服と同じ形式の法衣で、袴も俗人と同様に表袴(うえのはかま)という、ズボンタイプでいかにも騎馬民族風の白地の袴を着用します。
鈍色(どんじき)は、本願寺では七條袈裟または五條袈裟を着用するときに用いられた法衣で、形状は法服と同じではありますが、無文で単(裏地を付けない)仕立てであることを特徴とします。
袴については基本的に、七條袈裟着用時は表袴を、五條袈裟着用時は指貫(さしぬき)というボンタンスタイルの袴を着用しました。
正規に定められた法衣ではありますが、法服と素絹があれば用が足りるので、明治期には大寺院の住職であっても持っていない人がいたと23代・信誓院勝如宗主の御父君、浄如上人がご著書『龍谷閑話』で述懐しておられます。
素絹(そけん)は、現在の色衣、黒衣と同じ形状ではありますが、丈を1.5倍に調製し床に引き摺って歩くのが古い形式で、歩行の便のために等身に切り詰めた半素絹・切素絹が現在に引き継がれております。
天皇が御大礼で着用される御斎服と同じ、欄の付いた闕腋袍という古い形式の官服の形状をしております。(ただし領襟と垂襟の形状の違いがあります。)
こちらは無文で単仕立てであることが本義であり、明治41年の服制改革以前には有文の素絹はほとんど見られません。
法要・儀礼においては五條袈裟を着用し、袴は指貫を用いました。
直綴(じきとつ)はこれらとは淵源を異にし、中国の禅・念仏の影響を受けた法衣で、日本には鎌倉時代~室町時代頃の禅宗の伝来とともに伝わりました。
下半身にはプリーツが付いており、法服の僧綱襟の無い袍と裳が一緒になったような形状をしております。
法要・儀礼においては五條袈裟のみを着用し、袴は用いないことが多かったようです。
御門主様が御正忌報恩講に先立って御真影様のお身拭いをなさる大御身では、緋色離紋の道服という、直綴と同じ形状のお衣を着用されます。
本願寺のお荘厳や法衣の故実について 釋證眞