法衣の「装束」性
仏教が中国に伝来したのは後漢の時代、西暦67年頃とされています。この時期から三国時代にかけては、戒律も伝わっておらず、服装も俗人と変わりがありませんでした。
西晋(265年~316年)のころ、西域から仏図澄が来朝してその働きかけによって漢人一般の出家が公許され、さらにその弟子の道安によって出家は「釈」を姓とすることや種々の行儀作法等が定められたことで僧制が確立し、中国仏教は教団としての体裁を整えることとなりました。
北方では仏教を国教とする王朝も出現し、皇帝が如来または菩薩と同一視されるようになった結果、祭政一致の観点から、俗のままに僧であるという一見矛盾を孕んだ考え方が是とされ、さらに中国はインドと比べて気候が寒冷であったため、袈裟の下に俗服を纏うという画期的なことが許容され始め、他方では僧侶が国家体制に組み込まれて国家的・経済的な優遇を受け、僧正や悦衆などの官職が置かれました。
このように、仏教がひとつの教団として国家と関係を持つようになり、加えて、僧侶自らの修行だけでなく広く衆生の教化が仏教の大きな役割とされ、加えて仏教が皇帝(=国家)の権威・権力を体現するようなことになったので、儀式を執行し教化を行うために尊厳さが求められるようになりました。
そうすると、あまりにも汚れたものや美的感覚を欠いたものでは儀式の尊厳を貶めることになるため、僧侶必携の服装である袈裟は著しく美化され、今日見るような華麗な意匠を持つ袈裟へと進化したと考えられます。
ここにおいて袈裟は、仏教徒の着るべき「衣服」から、僧侶の荘厳さを高めるための「装束」へと変化を遂げたのでした。
また、釈尊在世当時の三衣がすでにそうであったように、袈裟には「格式」が存在しT.P.O.によって着用するものを変えることが通常でした。そして、これらの装束としての華美さや格式の存在は袈裟の下に纏う種々の衣にまで及び、袈裟とその下に着る衣等を総称して「法衣」と称します。
我が国への仏教の伝来に伴い、またそれ以後の交流によって、大陸で発展して法衣は我が国にももたらされ、また我が国の中でもさらに発展を遂げ、色目や文様等の約束事も当然そうした宮中の約束事=有職故実の影響を受けることとなります。
衣服の色で着用者の身分を表示することは我が国では聖徳太子の冠位十二階に始まるとされますが、現在に連なる宮中の服制の根幹となったのは天平宝字元(757)年に施行された養老律令のうち衣服令です。
ここでは、一位深紫、二位・三位は浅紫、四位は深緋、五位は浅緋、六位は深緑、七位は浅緑、八位は深縹、初位は浅縹と定められました。大別すると紫→緋→緑→縹の順となり、概ねこの序列が現在に引き継がれています。法衣の色目としても概ねこの通りですが、ここに紫・緋相当で香色が加わります。また、袈裟自体は緋を尊び、紫を次とするようになりました。
法衣に用いられる袴は表袴と指貫(切袴)ですが、このうち表袴は白地に赤の裾が付き、この白地部分が公卿は有文、それ以下は無文となり、僧分でも公卿相当の身分の場合は有文、それ以下の身分の場合は無文となります。有文の場合は、一般には「窠に霰」文で、霰(市松文様)地に窠(瓜の断面とも鳥の巣を表すとも伝えられる意匠)ですが、老分は八藤の丸文となります。なお、屋内で法要儀式の際に履く草鞋の内側には自分が着用する表袴の生地を貼ります。
指貫は、まず地下は浅黄色平絹。殿上が紫色平絹。公卿に至って、若年は紫地亀甲地紋白浮線綾丸文、青年は紫地白鳥襷文、壮年は紫地白八藤の丸文、中年は浅黄地白または黄八藤の丸文、老年は白地白八藤の丸文となり、髪が黒髪から白髪となっていくが如く、濃い紫から白に向かって段々と薄くなっていきます。
法衣や袴の文様の大きさも決まり事があり、基本的には若年時は文様は小さく密に、老年に向かって段々と大きく疎にしていきます。
今回ご紹介した約束事は一つの例であって実際には公家の各家、各門流、各寺院、各宗派、各門流で種々様々であって一般化して全ての事例に当て嵌めることはできませんが、本願寺においては基本的にこうした約束事に則った法衣が着用されてきました。現在の服制も一部にその影響を見てとることができます。
本願寺のお荘厳や法衣の故実について 釋證眞