喪服
今年のNHK大河ドラマは紫式部を主人公とした「光る君へ」ということで平安時代が舞台となっていますが、その中で貴族が着用していた喪服が登場する回があり、多少ネット上で話題になりました。
現代において喪服と言えば真黒を連想しますが、わが国の有職故実では鈍色(ややこしいのですが、これは装束の名称の「鈍色(どんじき)」と同じ漢字で「にぶいろ/にびいろ」と読み、グレーを指します。装束の資料で「鈍色」と出てきたときは装束としての「どんじき」なのか喪の色としての「にぶいろ」なのか注意が必要です。)の麻地の装束が喪服とされました。喪服に麻を用いることは東アジア文化圏で共通して行われ、麻の衣で裸足というのが喪の出で立ちでした。大陸では生成の衣を用い、鈍色にするのはわが国独特の文化です。平安時代の宮廷では亡くなった者との関係が深いほど濃い鈍色の喪服を用いました。鈍色の喪服が悲しみの涙で濡れさらに濃くなる、といった内容の和歌が詠まれています。また、葬儀だけではなく13日間の服喪期間は喪服で通しました。一般においては生成のままの衣(麻に限らず)を喪服として使用することがあったようです。
本願寺における葬儀でも、江戸期以降はこうした有職に基づく喪服が用いられていたようです。本願寺21代・信知院明如宗主の葬儀の様子が詳細な挿絵つきで『葬式図絵』として国書刊行会から出版されていますが、宗主一門だけでなく、御堂衆や家臣団も鈍色の装束であったようです。現在でも、本願寺派の衣体条例では喪服として鈍色麻地の衣体(色衣、五條袈裟、切袴)を着用することとされています。なお、一部で鈍色麻地の七條袈裟が扱われていますが、喪家が七條袈裟を着用することは条例上の定めとしてはありません。
喪服ではありませんが、宗門として執行される葬儀、例えば御門主樣や御裏樣の葬儀、重職にあった者の宗門葬に結衆が着用する衣体は藤鼠色の色衣に萌黄色地白乱紋(衣体条例では「白乱紋」の具体な定めはありませんが、現在は白八方蓮沈織のものが用いられています。)の五條袈裟であり、葬儀へ出仕する者の装束として相応しい色目と言えましょう。(本願寺派において)
なお、喪服は鈍色麻の装束を着用しますが、厳格には、喪服とともに中啓は黒染骨鈍色張または白骨白張を用い、念珠は皆木珠の苧麻房の双輪念珠を用います。足元は裸足とし藁沓を履きました。また、悲しみに打ちひしがれ足元が覚束ないことの表示として青竹の杖をつきました。現在はこうした物具はあまり用いられることはなく、一部で中啓と念珠を喪用のものを用いられるのみで藁沓や青竹杖はほとんど見られません。
ところで、黒が喪の色となったのは明治時代に入ってから諸外国との交流が生じたことによってその文化に合わせる必要が生じたためで、それまで豊穣の象徴である鯨をモチーフとし慶事で用いられてきた黒白の鯨幕が一転して葬儀に使われるような逆転現象が生じました。冠婚葬祭の在り方は地方によって種々様々であるのみでなく兎に角時勢を反映し移り変わっていくものなので、グローバル社会の現代、喪の在り方はさらに変動していくのかもしれません。その中であえて一度立ち止まり、先人が故人をどのように弔ってきたのかを考えることは大切なことのように思います。
本願寺のお荘厳や法衣の故実について 釋證眞